沖縄本島観光3日目
定期観光バスで南部戦跡めぐりと玉泉洞観光をしてきました

第二次世界大戦で、日本で唯一地上線の行われた沖縄。その中でも、南部は、悲惨極まる歴史が刻まれた悲しい所です、海軍司令部跡、ひめゆりの塔と平和祈念資料館で見て聞いた光景、沖縄の美しい自然と反比例する沖縄の悲しい過去を訪ねてみました。

旧海軍司令部壕跡
第二次世界大戦中、アメリカ軍に対して、当時の日本軍は、軍民を問わずに徹底抗戦に撃って出て、多くの犠牲を出した悲しい歴史のあるところであります、壕の中には、司令官室の跡や、下士官兵員室、などがあり、幕僚室、手榴弾で自爆した痕跡が当時のまま残っていました、

壕入口階段

発電機室
司令官室 司令官だった大田海軍少尉が海軍次官に打った電文、沖縄の人々が献身的に焦土作戦に協力し、散っていく惨状をありのまま伝え訴えた電文

通路

自決の跡が残る幕僚室
ひめゆりの塔
資料館内は撮影禁止でしたので写真がありませんが、ひめゆり平和祈念資料館では、ひめゆり学徒隊のいた洞窟の病院が再現され、ボランティアの生存者から実際の話を聞くことができます、

米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945(昭和20)年3月23日深夜、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒222人、教師18人は、那覇市の南東5キロにある南風原の沖縄陸軍病院に配属されました。
  3月26日、米軍は慶良間列島に進攻、4月1日には沖縄本島中部西海岸に上陸。米軍の南下に従い日本軍の死傷者が激増し、学徒たちは後送されてくる負傷兵の看護や水汲み、飯上げ、死体埋葬に追われ、仮眠を取る間もなくなっていきます。
 5月下旬米軍が迫る中、学徒たちは日本軍とともに陸軍病院を出て、本島南端部に向かいました。移動先の安静もつかの間、激しい砲爆撃の続く中で6月18日を迎えます。学徒たちは突然の「解散命令」に絶望し、米軍が包囲する戦場を逃げ惑い、ある者は砲弾で、ある者はガス弾で、そしてある者は自らの手榴弾で命を失いました。陸軍病院に動員された教師・学徒240人中136人、在地部隊その他で90人が亡くなりました。

ひめゆり平和祈念資料館

病院壕

改めて戦争の悲惨さむごさを感じました、そして二度とこのような悲劇が繰り返されないことを願った。どっぷりと平和の中に生きていることに感謝し、いろいろと感じさせられることもありました。
平和祈念公園
摩文仁の丘陵地の南東側に美しい海岸線を眺めることのできる平和祈念公園、 “沖縄戦終焉の地”糸満に整備された広い敷地には、沖縄戦の記録写真や遺品などを展示した平和祈念資料館、国立沖縄戦没者墓苑をはじめ各県の慰霊塔などがあり、人類の恒久平和をアピールしています。
 1995年に除幕した「平和の礎」には、国籍や軍人、非軍人を問わず、沖縄戦で戦死した全犠牲者23万8千人余の氏名が刻まれています、ご冥福を祈ります。

平和祈念堂(工事中
 

平和の礎


平和の火

平和祈念資料館


玉泉洞

隆起珊瑚礁から生まれた日本で唯一の鍾乳洞です、珊瑚礁の石灰成分は、雨で浸食し長い時間をかけて鍾乳洞を形つくっています、全長 5000mの内、890mが公開されています、
玉泉洞の上には王国村があり、琉球の民家を移築した民族村が作られています。

紅型工房


     
園内で咲くハイビスカス

エイサーの練習風景本番が見られなくてちょっと残念!

ゆいレール駅にて定期観光バスを降り空港に、帰りは鹿児島経由で中部空港に帰ります、台風接近の報に鹿児島への飛行機が遅れると中部空港行きに乗れないのではと心配しましたが、同じ飛行機が中部空港に行くとのことでひと安心、予報では台風接近で三日間共雨マークの沖縄の旅もお天気に恵まれ無事終わりました。

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